廃線跡探訪 旧信越本線 碓氷峠(旧線 アプトの道) その4

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その3からの続きです。その3はこちら⇒廃線跡探訪 旧信越本線 碓氷峠(旧線 アプトの道) その3

前回その3では、第五号トンネルを抜け、第三橋梁(めがね橋)が見えたところまで紹介しました。

今回は第三橋梁から見ていきます。

横から見ると、四連のアーチが見えます。橋を渡って熊の平駅側の脇から下に降りる道があります。

第五号トンネル脇からみた第3橋梁です。かなりの高さがあります。
橋の上です。橋の欄干もレンガ積みです。遠くには碓氷峠の新線の橋が見えます。

もちろん新線も廃線となっていますが、廃線から20年以上経過しているのに架線もそのままあり、いまでも電車が走って来そうに見えます。

橋の下に降りてきました。大きさに圧倒されます。

橋の下には案内看板がありました。よく見ると昭和45年に設置されたもので、50年以上前のものです。今はなき「鉄道管理局」の文字があります。

橋の裏側です。よく見ると、橋脚の途中に石が突出しています。
橋脚を見上げると、石が突出している様子が良くわかります。なんのために石が突出しているか調べたところ、橋のアーチ部分を作るときの足場として使用するためのものだそうです。
橋脚の途中に石を挟み込んでおいて、そこに足場を組み立てる様子を詳しく説明されています。この説明看板もアプトの道沿いに掲げられていたものです。有り難いです。

次は、めがね橋の側面です。いろんな金具が取り付けされているのが見えます。黄色と青色の丸印で囲んだ金具に注目します。青丸で囲った部分の金具は、ラックレールを短く切ったもののようです。使用済みのものを再利用していると思われます。

下の写真は、アプトの道沿いに掲げられていた昔の写真。蒸気機関車の時代には、上の写真の黄色の丸印で囲った金具が写ってます。電信用のケーブルが掛けられていたようです。青丸で囲った金具は、まだ設置されていません。

蒸気機関車は開業当初1893年~電化される1912年まで使用されました。写真はその期間で撮影されたものと思われます。

時代が進んで電化後の写真もありました。こちらの写真にも、青丸で囲った金具は見当たりません。

EC40が使用されていたのは、1912年〜1936年。写真はこの期間に撮影されたものと思われます。
ED42が写っている写真には、古いラックレールを利用した金具が写っています(先の写真で青丸部分です)。この写真が何年頃かは解りませんが、ED42は1934年(昭和9年)から製造されていますので、それ以降に取り付けされているようです。金具には太い電線かパイプのようなものが掛かっているように見えます。

次は、橋の本体についてです。

下の写真は、開業当時(1896年 明治26年)の姿。写真にも書いてあるように、現在の姿と比べて、橋脚が細いです。

この写真も、アプトの道沿いに掲げられていたものです。確かに、現在と比べて橋脚が細く、アーチの頂点と橋桁の厚みが薄いように見えます

次の写真は、1897年 明治27年~1899年 明治29年頃の写真とのこと。開業の翌年から、改修工事が行われていました。

開業当初から強度的な問題があったらしく、翌年から改修工事が行われました。
左のアーチと真ん中のアーチでは、橋の上からの「厚み」が異なります。アーチ部分を厚くし、橋脚を太くすることで強度UPしたようです。
黄色の点線から外側部分が改修工事で追加されました。
裏側からみると、アーチ部分の黄色点線の内側と外側にそれぞれ「アーチ状のレンガ積み」があり、2重になっています。内側(下側部分)が、改修で追加された箇所です。
橋脚に見えている黄色矢印が示す石は、当初の橋脚部分を作る際に使用した足場用の石で、赤色矢印が示す石は、改修工事で橋脚を太くした際に追加した石と見られます。

それにしても、重機が無い時代に、これだけ大きな構造物を山奥に建設することは、相当大変なことだったと思います。凄いです。

次は、その5(作成中) 第6号トンネルから続けます。

その他の廃線跡もあります。よろしければご覧ください。

廃線跡探訪 大仏鉄道 前編  100年前に9年間だけ存在した幻の鉄道

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